2018年08月28日

さくらももこ逝去

 漫画やアニメで人気を博した「ちびまる子ちゃん」の作者で漫画家のさくらももこさん(本名・非公表)が15日に乳がんのため死去していたことが27日、分かった。53歳だった。葬儀・告別式は近親者で行った。「さくらプロダクション」が発表した。

 昭和40年、静岡県出身。59年に漫画家デビュー。61年から少女漫画誌「りぼん」(集英社)で代表作「ちびまる子ちゃん」の連載を始めた。自身の経験をもとに、何気ない日常を小学3年生の主人公「まる子」の目線からコミカルに描いた同作は大ヒットを記録。同社によると、単行本などの累計発行部数は約3200万部に上るという。

 平成2年からはフジテレビ系でアニメ(日曜午後6時)が放送され、同年10月28日の平均視聴率は39.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)をマーク。昭和52年以降に放送されたアニメで歴代1位となるなど国民的アニメとして親しまれ、アジア圏でも絶大な人気を集めている。アニメ放送は継続するという。

 代表作に漫画「COJI−COJI(コジコジ)」や、ベストセラーになったエッセー「もものかんづめ」など。アニメ版のテーマソング「おどるポンポコリン」の作詞も手掛け、CDが160万枚を超えるミリオンセラー(オリコン調べ)になるなど、幅広く活躍した。(産経新聞、2018.8.27)


 ご冥福をお祈りします。


<参照>
ウィキペディア さくらももこ
posted by リュウノスケ at 01:39| Comment(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月21日

橋本忍逝去

 映画「羅生門」「砂の器」などを手掛けた脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんが19日午前9時26分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。100歳だった。兵庫県出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長女綾(あや)さん。

 映画監督・脚本家の伊丹万作氏に師事し、1950年、黒沢明監督の「羅生門」でデビュー。同作はベネチア国際映画祭の最高賞の金獅子賞を受賞。その後、「生きる」「七人の侍」などの黒沢作品に参加した。

 社会派の骨太な作風で知られ、今井正監督の「真昼の暗黒」、山田洋次監督の「霧の旗」、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」、森谷司郎監督の「日本沈没」「八甲田山」、野村芳太郎監督の「砂の器」など日本映画を代表する数々の名作を手掛けた。

 戦犯として死刑にされる元軍人の庶民の姿を描いた58年のテレビドラマ「私は貝になりたい」は大きな反響を呼び、自ら監督して映画化した。(時事通信、2018.7.20)


 個人的には邦画史上最高の脚本家だと思います。凄い傑作だなと思ったら大体この人。『切腹』とか。ヒューマニズムを通俗的なお涙頂戴に回収しない美意識は日本人離れしており、フォロワーはむしろ外国に多いんじゃないでしょうか。心よりご冥福をお祈りします。


<参照>
ウィキペディア 橋本忍
posted by リュウノスケ at 02:43| Comment(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月19日

デニス・テン逝去

 フィギュアスケート男子の14年ソチ五輪銅メダリストのデニス・テンさん(25)=カザフスタン=が死去したと、同国メディアの「KAZINFORM」が報道した。

 同メディアによると、テンさんはアルマトイ市内で車のミラーを盗もうとした2人に右大腿部などを刺されたという。その後、救急車で運ばれたが、報道によれば「3リットル」の血液を失うほど、出血がひどく重篤な状態に陥っていたという。

 「KAZINFORM」は最新のニュースで同国保健省の関係者の「残念なことに、私たちはもう彼には会えない」というコメント掲載し、死亡が確認されたと伝えた。

 今後、記者会見で説明されるという。

 テンさんは朝鮮系カザフスタン人のフィギュアスケーター。14年ソチ五輪ではSP9位からフリーで圧巻の演技を見せ、羽生結弦、パトリック・チャンに次ぐ銅メダルを獲得。カザフスタンにフィギュアスケートで初めてメダルをもたらした英雄だった。(デイリースポーツ、2018.7.19)


 ご冥福をお祈りします。
posted by リュウノスケ at 22:47| Comment(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月17日

西城秀樹逝去

 「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」など数々のヒット曲を歌った歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市の病院で死去した。63歳だった。広島市出身。葬儀は26日午前11時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻木本美紀(きもと・みき)さん。

 1972年に「恋する季節」でデビュー。抜群のルックスと熱い歌声、派手なアクションで人気を集め、郷ひろみさん、野口五郎さんと共に「新御三家」と呼ばれ、一世を風靡(ふうび)した。テレビドラマ「寺内貫太郎一家」や映画「愛と誠」に出演するなど俳優としても活躍。カレーのCMでは「ヒデキ、感激!」のキャッチフレーズで親しまれた。

 79年に出した米国曲のカバー「YOUNG MAN」が大ヒット。全身を使って「Y.M.C.A.」を表現するアクションを子どもから大人までまねるブームを巻き起こし、同年の日本歌謡大賞を受賞した。

 他の代表曲に「情熱の嵐」「愛の十字架」「激しい恋」「ブーメランストリート」など。アジアでも人気を集めた。

 2003年に脳梗塞で倒れたが、3年後に復帰。コンサートの他、NHK「趣味の園芸 やさいの時間」などにもレギュラー出演した。11年に再発して後遺症が残ったが、リハビリを続けながらコンサートなども行った。

 先月中旬には栃木県でステージに立ったが、体調を崩して同25日から入院していた。(時事通信、2018.5.17)


 ご冥福をお祈りします。
posted by リュウノスケ at 23:56| Comment(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月24日

衣笠祥雄逝去

 プロ野球の広島で2215試合連続出場の世界記録(当時)を樹立し、「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さんが23日夜、上行結腸がんのため死去したことが24日、分かった。71歳だった。京都府出身。通夜、葬儀は家族のみで行う。お別れの会などは未定。

 京都の平安高(現龍谷大平安高)から1965年、広島に入団して捕手から内野手に転向。87年の現役引退まで広島一筋でプレーした。豪快なフルスイングからの強打が持ち味で、75年球団初のセ・リーグ優勝では、山本浩二とともに主砲として活躍。「赤ヘル旋風」を巻き起こした。

国民栄誉賞授賞式で中曽根康弘首相(右)と記念撮影する衣笠祥雄選手(中央)=1987年6月、首相官邸

 79年には死球を受け肩甲骨を骨折したこともあったが、翌日の試合に代打で出て強振。不屈の闘志で出場を重ね、80年にはプロ野球新記録の1247試合連続出場をマークした。87年6月には当時の米大リーグ記録だったルー・ゲーリッグの2130試合も抜いて国民栄誉賞を受賞。これは96年に大リーグのカル・リプケンが塗り替えるまで世界記録だった。

 プロ23年間の通算成績は、2677試合に出場して2543安打、打率2割7分、1448打点、504本塁打、266盗塁。背番号3は広島球団の永久欠番。引退後は評論家として活躍し、96年に野球殿堂入りした。(時事通信、2018.4.24) 


 王貞治ソフトバンク球団会長 鉄人と言われた衣笠さんがこんなに早く亡くなられるとは信じられない。けがを乗り越え達成した連続試合出場記録は、絶対に続けるんだという強い気持ちがあったから。その気持ちは後輩にも受け継がれていると思う。

 ◇ナイスガイだった
 長嶋茂雄元巨人監督 鉄人と呼ばれた通り体が強く、心優しい人でもあった。巨人戦で死球を受けた時、カープのベンチを自らなだめながら、笑顔で一塁へ向かう姿が忘れられない。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイだった。

 ◇頼りになる方だった
 大野豊氏 マウンドによく声を掛けに来ていただいた。怒られたことは一度もない。いつも優しく元気づけられた。頼りになる方で、野球に対する思いが強い方だった。

 ◇笑顔は忘れられない
 北別府学氏 急なことでびっくりしている。もうちょっと頑張ってもらいたかった。ピンチの時にも頑張れと背中を押してもらった。あの優しい笑顔は忘れられない。

 ◇本当に優しい方
 野村謙二郎氏 現役の頃は、調子が悪いと激励してくれた。監督になった時は思い切ってやればいいと声を掛けていただいた。本当に優しい方だった。

 ◇若手のお手本だった
 小早川毅彦氏 プロとしての厳しさ、責任感を教わり感謝しきれない。優しい先輩で努力の人。若手のお手本だった。早過ぎる別れが残念でならない。

 ◇日本一報告を
 広島・緒方監督 (25年ぶりの優勝時に)心から喜んでおられた。常勝チーム、強いカープにしてくれと言われたのを覚えている。今季終了後には日本一の報告ができるよう精いっぱいやりたい。

 ◇一番影響を受けた
 阪神・金本知憲監督 何年か前に体調が悪いと聞いたが、元気な姿を見せてくれていたのでびっくりした。野球を見始めたきっかけは母親が衣笠さんを好きだったから。自分が(試合を)休まないというのは、衣笠さんから一番影響を受けた。

 ◇強い広島の礎
 楽天・梨田監督 2215試合連続出場は並大抵ではないし、けがをしても辛抱強いその姿を見て、今の強い広島の礎が築かれたと思う。大きな人を失い、残念でならない。

 ◇強さ教えてくれた
 日本ハム・栗山監督 野球をやめられてからはいろいろと声を掛けてくれた。プロ野球選手として一番大事なのは試合にずっと出る強さ、それを教えてくれた。本当に自分に厳しい人で、周囲には優しかった。

 ◇優しい方だった
 ドジャース・前田 いつも穏やかで優しくて、すごくいい方だったので寂しい。カープにとって歴史に残る素晴らしい選手。みんなが目標とするような選手だったし、人柄だった。

 ◇鉄人の姿記憶に
 斉藤惇コミッショナー 2215試合連続出場の日本記録、国民栄誉賞をはじめ、数々の功績を残された衣笠さんの突然の訃報に深い哀悼の念を感じております。骨折されても試合出場を続けられた「鉄人」の姿は記憶に残っております。

 ◇気配りの人だった
 元広島投手の山根和夫氏 首脳陣が投手を代える動きを始めると、三塁手の衣笠さんがタイムを取って一声かけてくれた。気配りの人だった。とても残念。71歳は早過ぎる。

 ◇野球愛していた
 達川光男ソフトバンクヘッドコーチ 多くの野球好きを見てきたが、衣笠さんがナンバーワンだった。とにかく野球を一番愛していた。信じられない。

 ◇審判育ててくれた
 セ・リーグ元審判員の井野修氏 いい判定を下したときは、にっこりと笑いかけてくれた。あの笑顔は忘れられない。衣笠さんは判定に異議を唱えず、審判を育ててくれる選手だった。

 ◇言葉は一生消えない
 広島・鈴木 レギュラーで出ている以上けがをするな、チームとファンのため試合に出ないといけないと言われていた。その言葉は僕の野球人生で一生消えることはない。(時事通信、2018.4.24)


 広島で活躍し、2215試合連続出場で「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)氏が死去したことを受け、元巨人の野球解説者・槙原寛己氏(54)が24日、TBS系「ゴゴスマ」(月〜金曜・後1時55分)に電話で生出演。19日に衣笠氏と一緒に野球解説をした槙原氏は「非常にやせていた」と明かした。

 衣笠氏は19日にBS―TBSで放送されたDeNA・巨人戦で解説を行ったが、声がかすれていて心配する声が視聴者から上がっていた。槙原氏は「解説の日の体調が本当に思わしくなくて、やっぱり声出なかったんですよ。なかなか声が出なくて、衣笠さんしゃべりたいんだけどしゃべれないもどかしさをすごく横で感じてたんで。すごく残念」と振り返った。

 槙原氏は19日に当初出演予定でなかったが、衣笠氏が体調不良のため、急きょ呼ばれたという。「非常に野球の現場が好きな方だったんで(解説に)非常に励みに来られてたと思うんですよね」と槙原氏。さらに「体調が思わしくないというのは数年前からありました」とし、衣笠氏が好きな酒や肉を最近控えていたことも明かした。

 1月に解説者の新年会で顔を合わせた際は変化を感じなかったというが、「つい先日、木曜に会った時に非常にやせていたという印象だった」と話していた。 (スポーツ報知、2018.4.24)


 19日の中継は私も見ていて声が聞き取れないほど弱々しかったので風邪でも引いているのかと思っていましたが、まさか末期癌だったとは。最後まで鉄人でした。

 オープン戦でホームランを打ったにも関わらずロマックは活躍しないと断言した慧眼を我々は忘れません。偉大な打者であり有能な解説者、衣笠祥雄さんのご冥福を心よりお祈りします。


<参照>
ウィキペディア 衣笠祥雄
posted by リュウノスケ at 23:06| Comment(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする