2018年01月01日

井岡一翔引退

 ボクシング世界3階級を制した前WBA世界フライ級王者の井岡一翔(28=井岡)が12月31日、横浜市内で記者会見し、現役引退を表明した。「ボクシングを始めたきっかけだった世界3階級制覇を達成したので」と理由を説明した。引退届は30日に日本ボクシングコミッション(JBC)に受理された。ただ、国内ジム所属選手最多タイ「世界戦14勝」を誇る男に体力面の問題はない。情熱を取り戻し現役復帰となれば、米国など海外進出が有力な選択肢になりそうだ。

 井岡が「引退」で沈黙を破った。

 「ボクシングを始めた時のきっかけだった3階級制覇を成し遂げることができたので、引退しようと決めました。満足しています。でも(15年12月31日に3階級制覇を決めたレベコとの)再戦で勝ってこそ王者と思っていたので…。5度目の防衛戦の前に(引退を)決めました」

 4月23日にノクノイを下し5度目の防衛。元WBA世界ライトフライ級王者具志堅用高の日本記録「世界戦14勝」に並んだ。翌24日の会見以来250日ぶりの公の場。この日は父の井岡一法会長(50)がおらず、1人きり。週刊誌などで父との確執が報じられたが「父、両親があって今の自分があると感謝しています」。引退も「気持ちを伝えて『分かった』と言ってもらった」とした。

 世界最速のデビュー18戦で世界3階級を制した。それが、引退の決め手だった。「おじさん(元世界2階級王者井岡弘樹氏)の時から3階級制覇が井岡家の夢。幼い頃から、それを途方もないことだと感じていた」という。復帰については「その思いがあれば、ここにはいません。ただ、ゼロとは言えない」。今後については「次のビジョンのイメージはある。応援してくださった方に、さらに期待を持ってもらえると確信しています」と話すにとどめた。

 衝撃の決断だが、井岡はまだ28歳。プロのキャリアは23試合で、高い防御技術で強烈なダメージもほとんど受けていない。体力的な問題はなく、達成感を経て、再び情熱を取り戻せば、再起は十分考えられる。

 その場合、舞台は海外が有力な選択肢になる。現時点で「(海外は)全く考えていない」と話したが、ライセンス再取得が必要な国内復帰に比べ、海外はプロモーターと契約、現地コミッションの承認を得れば活動できるため、障害は少ない。「世界3階級王者」の肩書も心強い。「唯一無二の王者になりたい」が口癖の男がラスベガス、アトランティックシティーなど“本場”を選んでも不思議はない。可能性を残し、名王者がグローブを置いた。(日刊スポーツ、2018.1.1)


 まだ28歳なのでトラブルが原因なのは間違いないでしょう。さすがに谷村奈南のせいではないとは思いますが。


<参照>
エキサイトニュース 日刊サイゾー このまま引退も……? ボクシング現役世界王者・井岡一翔に大異変「ジムに顔を出していない」
エキサイトニュース アサ芸プラス 谷村奈南、夫がボクシング世界王座返上で「ハズレの嫁」呼ばわり
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2017年08月25日

山中慎介に勝ったルイス・ネリ ドーピング違反の疑い

 世界ボクシング評議会(WBC)は23日、京都市で15日に行われたWBCバンタム級タイトルマッチで13度目の防衛を狙った山中慎介(帝拳)にTKO勝ちしたルイス・ネリ(メキシコ)に、ドーピング違反の可能性があると公式サイトで明らかにした。

 試合に際して実施された検査で、ネリの検体に筋肉増強作用がある禁止薬物ジルパテロールの陽性反応があったとWBCは報告を受けた。スポーツ専門局ESPN(電子版)は、タイトル戦は無効試合となり、山中が王座に復帰する可能性があると伝えている。

 試合はネリが4回に連打を浴びせてTKO勝ち。34歳の山中は具志堅用高が持つ日本男子歴代最多記録に並ぶ世界王座13度連続防衛に失敗し、進退について「落ち着いて考えたい」と態度を保留している。

 ジルパテロールは家畜を太らせる目的で用いられる物質で、ドーピングで使用されることが多いクレンブテロールと作用が似ている。(時事通信、2017.8.24)


 とてつもないハードパンチで日本のボクシングファンを唸らせたネリが筋肉増強剤を使っていたというニュース。アヌシュ(ハンガリー)のドーピングが発覚して室伏に金メダルが転がり込んできたアテネ五輪を思い出します。山中は気を取り直して具志堅の記録を抜くしかありません。
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2017年02月08日

プロレスリング・ノア破産

 プロレス興行団体「ノア」を運営していたピーアールエヌ(東京)が、東京地裁から1日に破産手続き開始の決定を受けていたことが6日、分かった。破産管財人によると、負債額は調査中。プロレス興行および関連事業をは、すでに事業譲渡を受けたIT企業のエストビー(東京都千代田区)が継続しており、発表されている試合に影響はない。

 前身は「プロレスリング・ノア」で、新団体の旗揚げに伴い2000年6月に故・三沢光晴さんらが全日本プロレスを離脱し旗揚げ。同年8月に旗揚げ戦を行い、日本武道館で定期的に大会を開催、04年と05年には東京ドームで興行を行うなど大きな人気を集めた。しかし09年6月に三沢さんが試合中に事故死するアクシデントで亡くなってからは、人気は下降線をたどり、経営状態が悪化。16年11月に社名変更や興行事業の譲渡を実施し、破産申請の準備を進めていた。(スポーツ報知、2017.2.6)


<参照>
ウィキペディア プロレスリング・ノア
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2017年01月22日

「若乃花以来19年ぶり日本人横綱誕生」稀勢の里初優勝

 大相撲初場所14日目は21日、東京・両国国技館で行われ、大関稀勢の里(30)=本名萩原寛、茨城県出身、田子ノ浦部屋=が初優勝を遂げた。逸ノ城を下して1敗を守り、白鵬が貴ノ岩に敗れて3敗となったため、22日の千秋楽を待たずに決まった。

 新入幕から73場所目での初優勝は、旭天鵬の86場所に次いで史上2番目のスロー記録。茨城県出身の優勝力士は、2000年初場所の武双山以来。

 稀勢の里は17歳9カ月で新十両、18歳3カ月で新入幕と、ともに貴花田(後の横綱貴乃花)に次ぐ年少で昇進。早くから大器として期待を集め、大関昇進31場所目で悲願を成就させた。 

 ◇幕内優勝力士略歴

 稀勢の里 東大関。本名萩原寛、茨城県出身、田子ノ浦部屋。30歳。02年春場所に萩原のしこ名で初土俵。04年夏場所に17歳9カ月で新十両、同年九州場所に18歳3カ月で新入幕に昇進し、ともに貴花田(のち横綱貴乃花)に次ぐ年少記録。新入幕時に稀勢の里に改名。11年九州場所後に大関昇進。金星3個。三賞は殊勲5回、敢闘3回、技能1回。187センチ、175キロ。得意は左四つ、寄り、突き。(時事通信、2017.1.21)


 <大相撲初場所>◇14日目◇21日◇東京・両国国技館

 大関稀勢の里(30=田子ノ浦)が初優勝を果たした。

 ようやく稀(まれ)なる勢いに−。福井・永平寺の元貫首(かんす)から贈られた言葉「作稀勢(さきせ)」から「稀勢の里」と名付けた先代師匠の思いがかなった。中学卒業と同時に角界の門をたたいた「萩原少年」を一からつくり上げたのは、11年11月に大関昇進を見ずに急逝した先代の鳴戸親方(元横綱隆の里)だった。大器とほれ込み、指導した。稀勢の里はいくつもの教えが染み込んだ体で、その思いを体現した。

 先代との出会いは偶然だった。中学2年の終わり、相撲部屋を見学に行こうと、ネットで調べた。電話番号が書いてあったのは鳴戸と尾車だけ。当時、千葉県松戸市の鳴戸部屋は茨城の自宅から近く、訪れた。そこで先代に見初められた。

 両親は市販の菓子類やジュースを与えず、丈夫な体の下地をつくってくれた。そこに先代の教えが加わった。四つ相撲の禁止だった。「徹底的に突き押しを教えられた。なぜ相撲を取らせてもらえないのかと思ったこともあった。でも、受けて下がればけがにつながる。けが防止のためでした。亡くなる最後まで『この相撲を取れ』と。強い体ができたのも先代のおかげです」。2横綱1大関が休場、2大関が負け越した今場所、丈夫な体は際立った。

 先代は厳しかった。若い衆の門限は午後9時半。ただ、裏口の鍵だけは「閉めるな」と開けていた。門限破りも見つからなければよしとした。心の“逃げ道”を用意してくれた。松戸の部屋は2階の自宅と中でつながっていたが、必ず外階段を使った。ドアを開ける音、下りる音は大きく響く。稽古場に「行くぞ」との合図になった。「それが先代の優しさだったのかも」。

 06年に部屋旅行で中国を訪れた際、怒られて世界遺産を前に立たされた。そんな中、街中の買い物で100万円を25万円に値切った石があった。先代に「萩原、買え」と言われた。「その旅行で初めて声を掛けられたもんだから、うれしくて『はい!』と」。持ち帰ったその石は「羽織留めの石にしています」。限りある思い出の品だった。

 松戸にあった数々のトレーニング機器。先代も指導したトレーナーに必ず「親方は何キロでやっていました?」と尋ねた。先代が1つの指針になっていた。「自分は完成していなかった。だから良かった。先代に染められました」。スロー優勝は先代に匹敵。おしん横綱と呼ばれた系譜は、確かに引き継がれた。

 先代は弟子をめったに褒めなかった。ただ、たまに褒めるときは照れ隠しで、いつもこう切り出した。「本当は褒めたくないんだけど…」。今も空の上から、にこやかな表情で言っているに違いない。「本当は褒めたくないんだけど…よくやった」と。【今村健人】

 ◆第59代横綱隆の里 青森県浪岡町(現青森市)出身。15歳で入門。19歳の時に相撲界で「不治の病」とされた糖尿病を患うも、栄養学を独学で学び、徹底した節制で克服。30歳9カ月の高齢で横綱に昇進したことから当時大ヒットした、ヒロインが困苦に耐えるNHK朝の連続テレビ小説「おしん」の主人公になぞらえて「おしん横綱」と呼ばれた。(日刊スポーツ、2017.1.22)


 日本相撲協会の二所ノ関審判部長(元大関若嶋津)は22日、大相撲初場所で初優勝を遂げた大関稀勢の里(30)=本名萩原寛、茨城県出身、田子ノ浦部屋=の横綱昇進を諮る臨時理事会の開催を、八角理事長(元横綱北勝海)に要請することを明らかにした。同部長は「優勝が決まったらということだった。(審判部内で)異論はなかった。誰も物言いをつけないのではないか」と述べた。

 理事長は23日に開かれる横綱審議委員会(横審=守屋秀繁委員長)に諮問し、推薦を受けた上で、25日の春場所番付編成会議と理事会で正式に決める。

 日本出身力士としては、1998年夏場所後の横綱3代目若乃花以来19年ぶりの昇進で、2003年初場所中に引退した貴乃花以来の横綱が土俵に戻る。

 稀勢の里は昨年11月の九州場所では優勝次点となる12勝を挙げ、年間最多勝にも初めて輝いた。今場所は14日目に逸ノ城を下して1敗を守り、白鵬が貴ノ岩に敗れて3敗となったため、22日の千秋楽を待たずに優勝を決めた。(時事通信、2017.1.22)


 昨年年間最多勝に輝いた「無冠の帝王」がようやく優勝し、これで若乃花以来19年ぶりの日本人横綱が誕生することになりました。白鵬の力が落ちてきて上位勢の力が均衡化してきたので来場所以降も日本人力士が優勝争いに加われると思います。協会にとっては願ってもないことでしょう。稀勢の里関おめでとうございます。


 <市川紗椰「ユアタイム」に稀勢の里を迎えデレデレ>
 相撲好きを公言するタレントの市川紗椰(29)が23日、キャスターを務めるフジテレビ系ニュース「ユアタイム」(月〜金曜、後11時半)で、ゲストとして迎えた大関・稀勢の里(30)=田子ノ浦=を前に舞い上がった。

 この日行われた横綱審議委員会(横審)で、25日の横綱昇進が決定的となった稀勢の里。市川は場所中に番組内で「市川部屋」のコーナーを設けて深い知識を披露し、これまで稀勢の里に対して「投げられたい」「私が行くと負けちゃう」「きせのん」と“愛”を口にしており、普段と違った赤いドレスで気合を入れて横に立ったが、冒頭からデレデレ。「今年一番体温が上がっています」と心境を明かしたと思うと、いきなり「場所に入る前は、優勝できると思っていました?」と単刀直入の質問。稀勢の里から「市川部屋はいつも見ていた」と明かされると更に取り乱した様子をみせ、面と向かって「おかげさまで優勝できました」と報告されると「あ〜全然もう〜」と、その後は会話にならなかった。

 その後は少し収まったが、投げかける質問が「子供お好きですか」「いずれ欲しいですか」と答えにくいものばかり。幸せな時間はあっと言う間に終わってしまい「もっといっぱい質問有るんです。『犬に例えたら何犬』とか」と、残念そうだった。

 横綱昇進に向け「うれしい反面、気が引き締まる。これからも今まで以上に成長しないと」と抱負を語った稀勢の里。市川は最後にと断って「土俵入りの型は決まりましたか?」と、一番の関心事を“取材”。しかし「今、師匠と相談しています。腹は決まっていますが・・」とかわされた。(スポーツ報知、2017.1.24)





<参照>
ウィキペディア 稀勢の里寛
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2017年01月16日

藤本京太郎東洋太平洋ヘビー級王座獲得

 プロボクシングの東洋太平洋(OPBF)ヘビー級王座決定戦12回戦は14日、東京・後楽園ホールで行われ、同級1位の藤本京太郎(角海老宝石)が2位のウイリー・ナッシオ(オーストラリア)を3−0の判定で下し、新王者となった。この王座に日本選手が就いたのは初めて。これまでは大半が豪州など体格の勝るオセアニアの選手がタイトルを獲得していた。

 藤本は体重が15.8キロ重い相手に対し、2回に右フックでダウンを奪い優位に。採点は最大で9点差がつく完勝で、「ここまで来ることができて本当に幸せ。アジア人として、ヘビー級に風穴を開けられた」と興奮した様子で喜びを語った。

 格闘技イベントの「K−1」で活躍した藤本は、2011年にプロボクシングへ転向。12年12月にOPBFヘビー級王座決定戦でTKO負けしたが、13年7月に56年ぶりに行われた日本ヘビー級タイトル戦で勝ち、日本王者となった。戦績は16勝(8KO)1敗。(時事通信、2017.1.14)


 元K―1ヘビー級王者で日本ヘビー級王者の藤本京太郎(30)が東洋太平洋同級王座を獲得した。王座決定戦でオーストラリア王者に3―0の判定勝ち。従来はオーストラリア人やニュージーランド人が大半を占めていた同王座に、アジア人として初めて就いた。プロ通算成績は17戦16勝(8KO)1敗となった。

 藤本は2回に右ショートでダウンを奪い、その後も足を使って距離を取りながら右クロスを再三打ち込んだ。前日計量で約16キロの体重差があった相手のパワーに苦しみながらも決定打を許さず、9〜4点差の快勝。12年12月にプロ6戦目で東洋太平洋王座に挑んだ際は5回TKO負けしており「僕みたいな人間でもやれるんだというのを見せられた」と感激した。

 昨年大みそかにジムの後輩・小国以載がIBF世界スーパーバンタム級王座を獲得。「凄い力になった」と感謝した。今後は地域タイトルのWBOアジアパシフィック王座を獲得して世界ランク入りを目指すほか、1階級下のクルーザー級(79・38〜90・72キロ)でベルトを狙う計画もある。「殴っても殴っても倒れん。パンチをもらったら全部効く。ホンマ怖かった」という言葉で、日本人がヘビー級で戦う難しさを表現した。

 ≪過去最重量はクルーザー級≫日本人の重量級王者では96年に西島洋介山(オサム)、06年に高橋良輔(金子)が東洋太平洋クルーザー級王座を獲得した例がある。西島は95年にNABO(北米ボクシング機構)、97年にマイナー団体のWBF(世界ボクシング基金)で、いずれもクルーザー級王座を獲得。日本人ではないが、ウガンダ出身で緑ジム所属のオケロ・ピーターは01年に東洋太平洋王座を獲得した。

 ◆藤本 京太郎(ふじもと・きょうたろう)1986年(昭61)6月23日、大阪市生まれの30歳。2006年キックボクサーとしてデビュー。2009年にK―1ヘビー級世界王者に輝き、11年にプロボクサーに転身。13年に日本ヘビー級王座を獲得した。試合ごとに変わるヘアスタイルでもファンの注目を集める。1メートル83。(スポニチ、2017.1.15)


 K−1ファンにはお馴染みの京太郎が快挙達成。村田諒太も結構ですが、こっちも地上波で中継してください。


<参照>
日テレジータス ダイナミックグローブSP
ウィキペディア 藤本京太郎
posted by リュウノスケ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする