2013年05月07日

中坊公平逝去

 日本弁護士連合会会長、整理回収機構(RCC)の初代社長などを務め、「平成の鬼平」の異名を取った元弁護士の中坊公平(なかぼう・こうへい)氏が3日午前8時5分、心不全のため京都市内の病院で死去した。83歳だった。葬儀は5日、近親者で済ませた。自宅は京都市東山区。喪主は妻淳子(じゅんこ)さん。

 京都大法学部卒。1957年弁護士登録。73年、森永ヒ素ミルク事件の被害者弁護団長に就任し、救済に尽力した。85年には金をめぐる巨額詐欺「豊田商事事件」で同社の破産管財人を務めた。

 90年から2年間、日弁連会長。93年からは香川県・豊島の産廃不法投棄事件で住民側弁護団長として公害調停をまとめた。

 96年、旧住宅金融専門会社(住専)の不良債権処理に当たる住宅金融債権管理機構の初代社長に就任し、債権回収の陣頭指揮を執った。同機構を改組したRCCの社長となり、退任後も警察刷新会議委員などを歴任した。

 しかし、2003年に住管機構時代の不適切な債権回収をめぐり東京地検の捜査を受けた責任を取り、大阪弁護士会に退会届を提出。05年に廃業した。(時事通信、2013.5.5)


 香川県・豊島の約93万トンに上る産業廃棄物不法投棄問題、森永ヒ素ミルク事件の住民や被害者側の弁護団長を務めた中坊さんの死を関係者は悼んだ。

 産廃問題で中坊さんは県の謝罪と産廃完全撤去を勝ち取っただけに廃棄物対策豊島住民会議の安岐正三事務局長は「彼なくして、問題解決に向かうことはなかった。大恩人です」。

 住民会議のメンバーは1993年9月、公害調停申請の相談に行った。中坊さんは翌10月、豊島を初めて視察。「権力と徹底的に争えるのか」と住民に覚悟を求めてきたという。安岐さんは「その言葉で私たちも腹が据わった」と振り返る。

 「会合などでは決まって『私たち豊島住民は』と言って、自分たちの思いを伝えてくれた。厳しい中にも優しさのある人でした」と冥福を祈った。

 ここ数年は体調を崩していたという中坊さん。同会議の浜中幸三議長は「2016年の撤去完了を見届けていただき、喜び合いたいと願っていただけに非常に残念」と肩を落とした。

 一方、「森永ヒ素ミルク中毒のこどもを守る会」の全国本部事務局長を務めた故岡崎哲夫氏の長男で、森永ヒ素ミルク中毒事件資料館(岡山市)の久弥館長は「被害者の闘いを支援されたことに敬意を表したい」とコメント。その上で「ただ、晩年は被害者が加害企業によくしてもらって感謝しているという旨の発言をしたことには批判が多い。それは今後、被害者自信が克服すべき課題でもある。今は哀悼の意を示したい」と述べた。(山陽新聞、2013.5.6)


<参照>
ウィキペディア 中坊公平
森永ヒ素ミルク中毒事件 資料館 検証:中坊公平氏の言説について。
posted by リュウノスケ at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「地方政府の借金残高は20兆元(約320兆円)」中国シャドーバンキング問題

 「次の危機は中国発か」―。世界経済を悪化させた米国のリーマン・ショックや欧州の債務危機に続き、中国の金融が抱えるリスクに国内外の専門家の間で警戒が強まっている。火種となりそうなのは、規制が緩い“影の銀行”と地方の巨額な借金(負債)。世界第2の経済大国、中国の影響は大きく、金融危機に陥れば世界が混乱するのは確実だ。

 影の銀行とは、信託会社やファンドなどのいわゆるノンバンク。「シャドーバンキング」と呼ばれ、普通の銀行から借りられない信用力の低い企業などに資金を貸し出すが、元本や利息の回収ができない恐れがある。

 「米金融危機を招いたサブプライム住宅ローンと似ている」。米著名投資家のジョージ・ソロス氏は中国で先月開かれた経済フォーラムで、中国での影の銀行の急拡大をこう分析した。米国では、低所得者向け中心のサブプライムローンの焦げ付き問題が、2008年のリーマン・ショックの引き金となった。

 影の銀行の有力な貸出先は、各省など地方政府がインフラ建設の費用集めためにつくった「融資平台」という投資会社。米金融危機後の景気対策のため相次いで設立され、現在は全土で数千社あるとされる。

 融資平台の借金は公表されず、地方政府の事実上の“隠れ借金”。「借金を返すため新たに債券を発行し、雪だるま式に借金がかさんでいる融資平台もある」(中国の金融筋)という。地方政府の借金残高は20兆元(約320兆円)に達するとの指摘もある。

 「地方の借金は既に制御不能だ」。北京の大手会計事務所の幹部は最近、地方政府の資金調達に関する業務から手を引いたと英紙に打ち明けた。

 中国当局は銀行の健全な経営を図るため規制を強化してきたが、皮肉にもその結果、影の銀行が台頭。供給する資金総額は銀行の総融資額に匹敵するとの見方もあり、市場全体に与えるインパクトは無視できない。

 影の銀行は、個人投資家らに財テク商品を売って資金を得ている。預金より金利が高く人気の商品だが、北京の窓口で資金の使い道を問い合わせても、販売員は「優良な債券を組み合わせています」などとあいまいな説明を繰り返すばかり。リスク情報は十分に開示されていない。

 財テク商品の資金は不動産企業にも回り、バブル崩壊のリスクとも背中合わせだ。大規模に破綻し金融システムへの信用が崩れれば、公共事業などに資金が回らなくなり、景気が失速、と負の連鎖にあえぐことになる。

 欧米の格付け会社は今年4月に入り、中国国債などの評価を相次いで下げた。国際通貨基金(IMF)も報告書で中国の地方政府の財政状況に懸念を示し、中央政府に対応を促した。

 ソロス氏は、米国の経験を踏まえれば、危機を避けるため中国に与えられた時間は「2年だ」と言い切る。

 3月に本格始動したばかりの習近平指導部の危機意識は強い。李克強首相は4月17日、「地方政府の債務のリスクを有効に防ぎ、市場の監督を強化せよ」と閣僚らに指示。金融市場の健全化を急いでいる。(北京共同=清水敬善、山陽新聞、2013.5.6)
posted by リュウノスケ at 19:01| Comment(1) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長嶋茂雄松井秀喜国民栄誉賞授与式挨拶全文

 長嶋氏あいさつ全文

 国民栄誉賞を頂き、本当にありがとうございます。松井君も一緒にもらったとあって、非常にうれしく、本当に厚く御礼申し上げます。ファンの皆さま、本当にありがとうございます。よろしくお願いします。(山陽新聞、2013.5.6)


 10年分の思いがこみ上げる。独特の甲高い声が、さらに上ずった。第一声。「ジャイアンツファンの皆さま、お久しぶりです」。引退セレモニーで約4分間のスピーチ。松井氏の目はずっと潤んでいた。「4番・センター 松井 背番号55」のアナウンス。02年を最後に巨人を去り、現役を引退した男が、東京ドームに帰ってきた。

「もう二度と、ここに戻ることを許されないと思っていました。しかしきょう、東京ドームのグラウンドに立たせていただいていることに今、感激で胸がいっぱいです」

 満員の観客席は、万雷の拍手で迎えた。スピーチの後、松井氏は感極まった表情のまま、髪を振り乱す勢いでバックネット、一塁、三塁、外野方向へと頭を下げた。始球式で披露したユニホーム姿は、現役当時を思わせる体形。この日に備え、食事制限とトレーニングでベスト体重の100キロ前後に絞り込んできた。全て、長嶋氏譲りのファン思いの男ならではの、けじめだった。

 02年11月1日。FA宣言してメジャー挑戦を表明し「裏切り者と思われるかもしれません」「命を懸けて頑張りたい」と悲壮な決意を口にした。巨人を去ってヤンキースへ移籍し、米国で10年間を戦い抜いた。09年にワールドシリーズMVPを獲得し、日米通算507本塁打を記録した。決別から3838日。最大級の出迎えが待っていた。

 今後の人生。スピーチで、ファンに約束した。「また、いつか皆さまにお会いできることを夢見て、また新たに出発したいと思います」。指導者としての第2章である。セレモニー後、巨人―広島戦のテレビ中継にゲスト出演した際には「とにかく、そこ(指導者)を目指して頑張りたいと思います。頑張ります」と、さらにトーンが上がった。松井氏が思い描く理想の指導者像。それは、固い絆で結ばれた長嶋氏に他ならない。

 「言葉というよりも、毎日練習を通じて教わったような気がしますね。バットスイングを通じて。努力しないと、いいプレーヤーに近づけないと、常にメッセージを頂いていた」。練習はうそをつかない――。球場で、長嶋氏の自宅地下室で、遠征先の宿舎で、ニューヨークの高級ホテルで。時には国際電話越しにスイング音を聞いてもらった。素振りを通じ、長嶋イズムも叩き込まれた。

 松井氏は言った。「これからも監督の背中を追いかけたい」。「5打席連続敬遠の打者」と甲子園の歴史に名を刻んだスラッガーは、本塁打記録への期待を込めた「背番号55」、「巨人の4番」、「ヤンキース」と高まる重圧をはねのけ、期待に応え続けた。次は「国民栄誉賞受賞者」、近い将来には「巨人監督」として。高みからの出発が、松井氏にはよく似合う。

 【松井氏あいさつ全文】

 ジャイアンツファンの皆さま、お久しぶりです。2002年、ジャイアンツが日本一を勝ち取った直後、ジャイアンツに、そしてファンの皆さまに、自らお別れを伝えなくてはいけなかった時、、もう2度と、ここに戻ることを許されないと思っていました。しかしきょう、東京ドームのグラウンドに立たせていただいていることに、今、感激で胸がいっぱいです。

 1992年のドラフト会議で、私をジャイアンツに導いてくださったのが長嶋監督でした。王さんのように1シーズンでホームラン55本を打てるようなバッターを目指せと、背番号55番を頂きました。将来は立派にジャイアンツの4番バッターを務めなくてはいけないと思い、日々、努力したつもりです。ジャイアンツの4番バッターを任せていただけるようになり、誇りと責任を持って毎日プレーしました。ただ、その過程には、常に長嶋監督のご指導がありました。毎日毎日、2人きりで練習に付き合ってくださり、ジャイアンツの4番バッターに必要な心と技術を教えていただきました。また、その日々が、その後の10年間、アメリカでプレーした私を大きく支えてくれました。そのご恩は生涯忘れることはありません。

 きょう、ファンの皆さまに久しぶりにお会いしたというのにも関わらず、再びお別れのあいさつとなってしまい、もう一度プレーする姿をお見せできないのは残念ですが、これからも僕の心の中には常にジャイアンツが存在し続けます。どういう形か分かりませんが、また、いつか皆さまにお会いできることを夢見て、また新たに出発したいと思います。

 ジャイアンツでプレーした10年間、そしてアメリカでプレーした10年間、いつもいつも皆さまからの温かい声援が僕に元気を与えてくれました。ファンの皆さま、長い間、本当に、本当にありがとうございました。

 【松井氏受賞後あいさつ】

 私はこの賞を頂き、大変、大変光栄ではありますが、同じぐらいの気持ちで恐縮しております。私は王さんのようにホームランで、衣笠さんのように連続試合出場で、何か世界記録を作れたわけではありません。長嶋監督の現役時代のように、日本中のファンの方々を熱狂させるほどのプレーができたわけではありません。僕が誇れることは、日米の素晴らしいチームでプレーし、素晴らしい指導者の方々、チームメート、そして素晴らしいファンに恵まれたことです。

 今後、偉大な、お三方の背中を追いかけ、日本の野球の、そして野球を愛する国民の皆さんの力に少しでもなれるように、努力していきたいと思います。このたびは身に余る光栄ではありますが、ただただ私を支えてくださったファンの方々、そして私が野球で関わった全ての方々に感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。(スポニチ、2013.5.6)


 安倍首相、スピーチ全文

 安倍晋三です。長嶋監督、松井選手、おめでとうございます。

 長嶋さんの演じた数々のメークドラマ。アンチ巨人だった私も、手に汗握りながら、ラジオの前で耳を傾けていました。

 そして、日米ファンの度肝を抜いた松井選手の大きなホームラン。

 お二人の活躍は、今でもたくさんの日本人の目に焼き付いています。文句なしの国民栄誉賞、皆さんそう思いませんか?(客席から拍手)

 お二人が登場する、そうした瞬間にバッと空気が変わり、この会場も明るくなった気がいたします。この明るさこそ、私は、私たちが今求めているものだろうと思います。

 この10年間、日本は景気が低迷し、暗い雰囲気がありました。この雰囲気を変えなければいけない。こんな思いも込めて、お二人に国民栄誉賞を贈りました。

 今日はこどもの日です。たくさんの子供たちが今日、この球場にやってきてくれています。これからもお二人には、たくさんの子供たちに夢を与え続けてもらいたいと思います。そして私たちみんなが夢を持って、それに向かって一生懸命頑張っていくことこそが、4本目の矢になると、私は信じています。

 これからもどうか、お二人ともお元気で、頑張っていただきたいと思います。お二人とも、本当におめでとうございました。ありがとうございました。

 ◆正解は「サンケイ・アトムズ」

 授与式の祝辞で「アンチ巨人だった」と告白、場内をどよめかせた安倍首相。ではどこのファンだったのか、首相に聞くと「熱狂的なサンケイ・アトムズのファン」とのこと。現在のヤクルトが“アトムズ”を名乗っていたのは、首相の中学生時代に重なるが「(成蹊)小、中、高と(スワローズ)ファン。負けると機嫌が悪くなるものだが、当時はいつも機嫌が悪かった」と笑わせた。この日の告白には「あんなに反響があるとは思わなかった」と驚きを隠さず、「今はどこが好きとかはない」と強調していた。(サンスポ、2013.5.6)


 巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(77)=報知新聞社客員=と、巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏(38)が5日、背番号「3」と「55」をつけたユニホーム姿で東京Dへ帰ってきた。2人の国民栄誉賞授与式、松井氏の引退セレモニー後に行われた始球式では、夢の“師弟対決”が実現。ミスターは本気で打ちにいったが、投手・松井氏がまさかの大暴投で結果は空振り。それでも2004年の脳梗塞発症後では初となるバッティングを披露して、集まった4万6000人を超えるファンの涙を誘った。

 会見全文(代表質問)

―改めて今の気持ちを。
長嶋(以下、長)「かつてない気持ちの入ったセレモニーでした。ファンの皆様に改めてお礼申し上げます。ありがとうございました」
松井(以下、松)「そうですね、素晴らしいファンの皆様方に声援をいただき光栄でしたし、もちろん賞をいただいたことも光栄なんですが、責任が大きくなったなと身が引き締まる思いでした」

―2人で同時受賞。
松「僕にとっての本当に人生の師匠というか、そういう存在ですから。あまりにも僕にとっては、本当に一緒にいただくというのは申し訳ない気持ちもあるんですが、これからも監督の背中を追い掛け続けたいなと。そういう素晴らしいきっかけをいただいたと思っています」

―2人の深い絆があったからこその受賞だ。
長「そうですね。やっぱり最初に入った1年目のときが、すごく印象に残っているんですね。よく言うスイングを作る、1000日計画がね。あの印象が非常に強いんです」

―松井さんは?
松「入団してから毎日のように指導していただいた。その日々がつい最近のようによみがえりますし、僕が一番印象に残っているのは、1994年の10月8日のね、監督を胴上げできた瞬間。あの瞬間が今でもつい最近のように思いますね」

―10・8について長嶋さんはどうですか?
長「うーん、今お話しした話なんていうのは、やっぱり僕にとっては一番やっぱり、厳しい勝負だったと思いますね、はい」

―久しぶりに背番号3のユニホームを着た始球式はいかがでしたか?
長「私は何と言いますか、気持ちが高ぶりましてね、さあ打とうと、いうつもりだったんですが、たまたまボールが、顔のあたりに来たもんで、打てないなと、久しぶりにスイングをして、やっぱりあのときはうれしかったですね」

―打ちにいったんですよね?
長「いい球だったら、打ちたかったですね」
松「すいません」

―55番のユニホームはいかがでした?
松「そうですね。2002年以来のユニホームに袖を通して、いろいろなことがよみがえりました。本当に感激で胸がいっぱいになりました。始球式に関しては、僕も監督が打つという殺気を感じてましたので、入団以来、インハイを打たなくちゃいけないということで、常にあのインハイは練習させられてましたので。同じ所に投げました」

―頭を抱えているようにも見えた。
松「実はもう1球投げたかったんです」

―スーツ、ネクタイ、シャツがそろっている。
松「似てますね(笑い)。いや、監督にこの日のために選んでいただきました」
長「へっへっへ」

―松井さんはセレモニー前に巨人のロッカーに行った。ナインにはどんな話を?
松「ジャイアンツというチームは、僕も10年間プレーしましたけど、特別なチームだと思いますし、いろんな注目のされ方もします。それを正面から受け止め、はね返して、結果を出してこそ一人前のジャイアンツの選手になれると思っています。それがジャイアンツの選手としてのプライドだと思います、というような話をしました」

―代表して松井さんに子どもたちへメッセージを。
松「本当にたくさんの野球ファンの方々に支えられてきまして、こういう形になったと思いますが、それに関しては全国の野球ファンの方々に感謝の気持ちでいっぱいですし、これからそういう恩返しをしなくてはいけないと思いますし、その中で小さい子どもたちにも野球の素晴らしさを伝えていけたらいいなと思います」
(スポーツ報知、2013.5.6)


 巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(77)=報知新聞社客員=と、巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏(38)が5日、背番号「3」と「55」をつけたユニホーム姿で東京Dへ帰ってきた。2人の国民栄誉賞授与式、松井氏の引退セレモニー後に行われた始球式では、夢の“師弟対決”が実現。ミスターは本気で打ちにいったが、投手・松井氏がまさかの大暴投で結果は空振り。それでも2004年の脳梗塞発症後では初となるバッティングを披露して、集まった4万6000人を超えるファンの涙を誘った。

 会見全文(個人質問)

―長嶋さんに質問。松井さんには、今後どんな形で球界に貢献してほしい?
長嶋(以下、長)「松井君の場合、野球一筋だと思います。これからの仕事ももちろん、野球道に対して精いっぱいやると思いますけど、まだアメリカ10年、日本は10年。まだまだ日本人としてやるからには、やっぱり国民に対して応援するような形でやるべきだと思う。また、松井君しかできないと思うので、そういうような気持ちで野球道に集中してほしい」

―日本の皆さんにエールを。
長「ファンの皆さんはね、やっぱり野球人であってね、非常に情熱を、また意欲を持っている。もっと強い野球になるよう小さいお子さんを育てていこうと思います。幸いにして日本はね、子どもから野球をし中学、高校、また大学と、非常にいい(システムがある)と思いますね。その子たちにいい影響がある。まず小さいお子さんからやってほしいですね」
松井(以下、松)「私はむしろたくさんの方から声援をもらってそのことに対する感謝の気持ちでいっぱいなのですが、やはり野球というスポーツがどんどん大きくなっていく、そのために小さいお子さんから野球に興味を持って見てほしいなという願いは常に持っています」

―王さんからなんと声をかけられた?
松「20年間お疲れさまでしたという言葉をいただきました。よりいっそう日本の野球界のために頑張ってほしいという温かい言葉をいただきました」

―一緒に壇上に上がった気持ちを。
松「私はただただ光栄なだけです。しかも恩師である長嶋監督と一緒にいられるという、その気持ちだけです」

―おそろいのスーツについて。
松「提案したのは僕の方なんです。ただ長嶋監督に選んで作っていただいて、この晴れの日に、非常に申し訳ないんですけど、同じ服装でいきたいとお伝えしたんですが、素晴らしいスーツを作っていただき、ただただ感謝しています。一生大事にします」

―長嶋さんから教わったことで一番残っていることは?
松「言葉というよりも。練習を通じて教わった気がしますね。練習しないと、努力しないといいプレーヤーには近づけないというメッセージは常にいただいていた気がします」

―松井さんから長嶋さんにお祝いの言葉を。
松「僕にとりましては本当に人生においての恩師でありますから、僕は監督が国民栄誉賞を受賞したことを、おそらく国民の誰よりもうれしく思っています。その気持ちだけです」

―地元の石川県民にもメッセージを。
松「ふるさとの声援は常に僕を元気づけてくれましたし、大きなエールになりました。感謝の気持ちでいっぱいです。野球から教わったことは数え切れないくらいあります。長嶋監督が『野球とは人生そのものだ』という言葉を残されたと思いますけど、まさしくその通りだと思います」

―二度と戻ることが許されないと言っていたが、大声援を聞いた時はどんな思いだった?
松「ただただ感動しましたし、ここでプレーしていたんだという気持ちがよみがえりました。僕はこの声援で元気をもらっていたんだなという感謝の気持ちでいっぱいでした」
(スポーツ報知、2013.5.6)
posted by リュウノスケ at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする