2012年03月31日

大阪桐蔭藤浪晋太郎センバツ史上最速153キロ計測

 <センバツ高校野球:大阪桐蔭3−2浦和学院>◇30日◇準々決勝
 なにわのダルビッシュこと藤浪晋太郎(3年)が“劇投”で浦和学院(埼玉)を退け、大阪桐蔭をセンバツ初の4強進出に導いた。1点を追う6回から救援登板し、同点直後の7回裏無死満塁で自己最速15320+ 件キロの快速球を交えて3者連続奪三振。8回に1点を勝ち越されたが、力投が打線の反撃を呼び、9回に白水健太外野手(3年)の一打で勝ち越した。

 人生を変える大会になった。藤浪が両腕を突き上げる。197センチの長身が、さらに大きく天に伸びる。1年夏の大阪大会以来となる救援は、4回6奪三振1失点。萩原誠(元阪神)の91年、中田翔(日本ハム)の07年を超え、春初の4強をこん身の80球でつかんだ。

 「いい投手と勝てる投手の違いを、しっかり抑えることで出したかった。自分は、いい投手で終わりたくはなかった。勝てる投手になりたかったんです」。同点で迎えた7回、その思いを爆発させた。先頭からの3連打を浴びて無死満塁の危機を迎え、捕手の森ははっとした。「藤浪さんの顔つきが変わった。三振を狙っていると思いました」。吉川をスライダーで空振り三振。続く代打石橋の初球、15320+ 件キロの表示にスタンドがどよめいた。自己最速を2キロ更新する快速球はボールになったが、最後は150キロ直球で空振り三振。続く緑川を134キロカットボールで空振り三振に仕留めた。力と集中力で、ピンチを脱出した。

 8回には内野の相次ぐ失策で2死満塁。明石への150キロ直球が捕逸になって、再び1点を勝ち越された。だが、気持ちを切り替えて最少失点で切り抜けると、味方の猛攻が待っていた。9回1死一塁から安井の二塁打で同点。2死から7番白水の甲子園初安打となる中前打で勝ち越した。

 幼いころから成長痛に見舞われ、夜は痛くて眠れなかった。今はたくましい右腕になった。春の頂上へ、さあ、あと2勝だ。(日刊スポーツ、2012.3.31)


 センバツ準々決勝 大阪桐蔭3−2浦和学院 (3月30日 甲子園)
 大阪桐蔭の藤浪が08年平生拓也(宇治山田商)と並ぶ、センバツ最速タイの球速153キロを計測。

 過去の150キロ以上は全て初戦で、2戦目以降は藤浪が初めて。夏に156キロと伸ばした佐藤由規(仙台育英)らのように今後の更新にも期待できる。夏の最速は01年寺原隼人(日南学園)の158キロ(大リーグスカウトの計測)。(スポニチ、2012.3.31)


 センバツ最速タイ記録153キロを叩き出した藤浪にとって怖いのは肩の疲労だけ。雨天順延で登板間隔が若干楽になってよかったと思います。
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2012年03月30日

榎本喜八逝去

 プロ野球の毎日(現ロッテ)で中心打者として活躍し、「安打製造機」と呼ばれた榎本喜八さんが14日午前2時4分、大腸がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。

 東京・早稲田実高で1954年の甲子園大会に春夏連続出場。翌55年にテストを受けて毎日入りし、高卒新人で開幕戦に5番で出場、この年打率2割9分8厘、16本塁打で新人王に輝いた。

 その後、「安打製造機」と称された高い打撃技術を持つ一塁手として、「ミサイル打線」の異名を取ったオリオンズの中心打者として活躍。60年に3割4分4厘、66年に3割5分1厘で首位打者。68年には川上哲治、山内一弘に続いて3人目(当時)の通算2000安打を達成した。72年に西鉄へ移籍し、同年限りで引退。通算2222試合、2314安打、246本塁打、979打点、打率2割9分8厘の成績を残した。ベストナイン9回、オールスター戦出場12回。

 打撃技術をとことん突き詰める性格で、現役晩年は試合前にベンチで座禅を組むなど風変わりな行動が話題になった。引退後は指導者になることもなく球界と距離を置いた。(時事通信、2012.3.29)


 14日に亡くなっていたことがわかった榎本喜八さんは、張本勲さんやイチロー(マリナーズ)より前に「安打製造機」と呼ばれた打撃の職人だった。

 1955年、毎日オリオンズ(現ロッテ)に入ると、打率、打点などさまざまな高卒ルーキーの記録を塗り替えて新人王に選ばれた。その後はすさまじい練習量と研究心で、打撃力を向上させた。打撃の師匠は、早稲田実高の先輩で、毎日入団も取り持った荒川博さん。王貞治さんの師匠でもある荒川さんは「榎本は王の10倍、ばかまじめだった。大みそかも正月もうちに練習に来た」と当時を振り返る。

 60年代には山内一弘、田宮謙次郎、葛城隆雄らと「ミサイル打線」を形成し、一世を風靡(ふうび)した。68年には川上哲治、山内に次ぐ日本プロ野球3人目の通算2000安打を、31歳7カ月の若さで達成した。しかし、選手生活晩年は試合前にベンチで座禅を組むなどの奇行が目立ち、72年、トレードされた西鉄で選手生活を終えた。引退後は指導者の声がかからず、名球会などの行事にも参加せず、球界と一切の接触を断っていた。

 荒川さんは「まさか亡くなるとは。バットコントロールがすばらしく、あれだけの打撃の名人はいなかった」と一番弟子だった故人をしのんだ。(毎日新聞、2012.3.29)


 亡くなったのが14日なので葬儀はすでに近親者の方のみで終わっているんですか。通算2314安打を記録した大打者ならば本来球界関係者が大勢駆け付けて盛大に行われるもの。榎本さんが野球人として晩年いかに不遇だったのかが推察されます。

 プロ野球マニアならば必ず名前を知っている榎本喜八。その天才ぶりはONやイチローを凌ぐとさえいわれます。1000本安打・2000本安打到達の最年少記録、異常ともいえる正確な選球眼、神秘的なゾーン体験、難解な打撃理論などその伝説は枚挙に暇がなく、多くの大投手が史上最強打者に榎本の名前を挙げています。

 また、数々の奇行により表舞台から去った悲劇的人生もマニアを引き付けてやみません。榎本喜八とはなんだったのか。当時を知る関係者が生きている内に複数の専門家による総体的な研究が行われるべきでしょう。榎本喜八さんのご冥福を心よりお祈りします。


<【野球殿堂】榎本喜八氏、引退から44年エキスパート表彰>
伝説の打撃の達人が、遅ればせながらも脚光を浴びた。毎日(現ロッテ)などで通算2314安打を記録した故・榎本喜八氏がエキスパート表彰で野球殿堂入り。12年に亡くなった榎本氏に代わって顕彰式に出席した長男・喜栄(よしひで)氏(50)は「名誉ある野球殿堂に選んでいただき、何より本人が喜んでいると思います」と語った。

 榎本氏はテスト入団ながら、優れた打撃センスを生かして1年目から一塁の定位置を獲得した。24歳9か月での1000安打到達は、今も最年少記録として残る。31歳229日での2000安打到達も、イチローが04年に30歳212日で達成(日米通算)するまでの最年少記録で、「ヒットマン」とも呼ばれた。

 打撃の神髄を追い求め、自宅の和室では日本刀で素振りをしていたという。現役晩年は、ベンチで座禅を組むなど奇行とも取れる言動があった。72年に西鉄(現西武)で現役引退。その後も指導者として現場に復帰することを想定してトレーニングを続けていたが再びユニホームを着ることはなかった。

 現役引退から44年目での殿堂入り。喜栄氏は「他界した後に功績を評価していただくのも、不器用な父らしくていいんじゃないかなと思います」と笑った。

 ◆榎本 喜八(えのもと・きはち)1936年12月5日、東京都生まれ。早実から、55年に毎日に入団。1年目から開幕戦に「5番・一塁」で先発出場し、新人王獲得。60、66年に首位打者。72年に引退。一塁手で9度ベストナイン選出。2012年3月14日に大腸がんのため、75歳で死去。左投左打。(スポーツ報知、2016.1.19)


 <張本勲氏、榎本喜八さんを絶賛「理想的なフォーム」>
 野球殿堂入りが18日、東京都内の野球殿堂博物館で発表された。大毎(現ロッテ)などで2314安打の故榎本喜八氏が選ばれた。

 ゲストスピーチに立った首位打者7度の張本勲氏が榎本氏を絶賛した。「昨日(17日)あらためて連続写真をみたが、理想的なフォームです。余計な動きのない、教科書です」。史上3人目となる2000安打を31歳7カ月で達成した。この最年少記録は今も破られていない。

 榎本氏は55年、早実から毎日(現ロッテ)にテスト入団した。それが近鉄との開幕戦でいきなり5番。高卒ルーキーで開幕クリーンアップは世界の王も、張本にもない。2リーグ制後、たった1人の記録だ。打率2割9分8厘、16本塁打で新人王に輝いた。「安打製造機」と呼ばれる打者は数多く出たが、その第1号といわれる。

 172センチの左打者。常にフルスイングのプルヒッターだった。早実、毎日の先輩になる荒川博氏が巨人川上監督から打撃コーチとして勧誘された際、「榎本を育てたように王を育ててくれ」と言われたという。実働18年。西鉄を最後に引退。自宅に打撃練習場をつくり、バット代わりに日本刀振ったこともある。引退後も当時の本拠東京球場まで往復40キロを走った。毎日腕立て伏せ2000回をこなしていたという「伝説」が残る。

 長男喜栄(よしひで)氏(50)は「野球に関わって若い選手にお手本を見せるために、だったと思います。畳でスイングしていた姿が記憶にあります」。野球道を究めようとした「求道者」という評価がある。12年3月に他界。喜栄氏はこう付け加えた。「僕らにはやさしい父親でした。光栄に思いますし、子供たちにも伝えたい」と話し、父をしのんだ。

 ◆榎本喜八(えのもと・きはち)1936年(昭11)12月5日、東京都生まれ。早実で甲子園出場3度。55年、毎日(現ロッテ)にテストで入団し、通算2222試合で2314安打、打率2割9分8厘、246本塁打、979打点。1年目に新人王。首位打者2度、最多安打4度、最高出塁率1度、ベストナインには9度。一塁手の最多連続守備機会無失策はシーズン1128(68年)連続シーズン1516(67、68年)は、ともプロ野球記録。西鉄へ移籍した72年に引退。現役時代は172センチ、71キロ。左投げ左打ち。12年3月14日、大腸がんのため75歳で死去。

 ◆競技者表彰エキスパート部門 現役を引退したプロの監督、コーチで引退後6カ月を経過している者、現役引退後、21年以上経過しているプロ選手も有資格者とする。20人以内の候補者を選び殿堂入りした競技者と競技者表彰の幹事及び野球報道経験30年以上の委員(現在119人)が5人以内の連記で投票。3分の2の有効投票で、75%以上の得票者を殿堂入りとする。(日刊スポーツ、2016.1.19)


<参照>
ウィキペディア 榎本喜八
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2012年03月29日

井川慶オリックス入団

 オリックスは28日、ヤンキースからFAとなっていた井川慶投手(32)の獲得を発表した。背番号は「29」で、年俸1億円プラス出来高払いの2年契約。

 会見に出席した井川は、「日本の野球を見ていないので、不安はある」とした上で、「1日も早く仕上がるようにしたい」と、早期の1軍昇格を誓った。

 井川は自身の公式サイトで、6年ぶりの日本球界復帰をつづり、「アメリカ挑戦には一区切りつけて、オリックス優勝のために貢献できればと思っています」とした。

 ブログでは、熱心に入団を誘った岡田監督に感謝しているとし、「阪神時代に優勝したときには、トレーニングをしていて岡田監督の胴上げに参加しそこなってしまったので、今年の秋こそ、自分の手で岡田監督を胴上げしたいです」と井川らしいエピソードも交えて、恩師を男にすることを約束した。

 自身のコンディションについては「自主トレをしてきて体の準備は万全ですし、あとは実戦感覚を取りもどして、一日でも早く、一軍のマウンドに立ちたいです」と、1軍で投げる態勢になるまでそう時間がかからないことを強調した。(スポニチ、2012.3.28)


 オリックス入りが決定した元ヤンキースの井川慶投手が28日、自身の公式サイトでファンに入団の報告をした。

 井川は最初に「2007年から昨年までの5年間、アメリカで野球をしてきましたが、日本球界に復帰し、オリックス・バファローズでプレーさせていただくことになりました」と報告。続けて獲得に動いた岡田監督への感謝をつづった。

 「岡田監督に熱心にお誘いいただいたこと、この時期までお返事を待っていただいことを、とても感謝しています。岡田監督は、自分がプロ入りした年から、ファームで自分のプレーを見てくださっていました。そこから2007年にメジャーへ行くまで、自分が最も長くご指導いただいた指導者です。また、メジャー挑戦という夢を応援してくださり、快くアメリカへ送り出してくださいました。そんな岡田監督のもとで再びプレーできることを、とても嬉しく思っております」

 最後は岡田監督の下で優勝へ向けて全力で戦うことを宣言。「岡田監督が掲げる優勝という目標に貢献できるよう、全力を尽くし、精一杯頑張りたいと思っています。阪神時代に優勝したときには、トレーニングをしていて岡田監督の胴上げに参加しそこなってしまったので、今年の秋こそ、自分の手で岡田監督を胴上げしたいです」と記した。(デイリースポーツ、2012.3.28)


 オリックスは28日、昨季限りで米大リーグ、ヤンキースと5年契約が切れた井川慶投手(32)の獲得を発表。井川はやや緊張の面持ちで記者会見に臨んだ。

−オリックスを選んだ理由は

井川 岡田監督は快く米国に送り出してくれた監督。米国でやりたい気持ちもあったが、恩師である岡田監督の下でやるのがベストだと思った。

−久々の日本のマウンドとなる

井川 日本の野球を見ていなかったので不安もあるが、やることは一緒。

−米国での5年間は

井川 上(メジャー)で投げる機会はなかなかなかったが、下(マイナー)でいろんな経験をした。野球人としてレベルアップできたかなと思う。

−具体的にはどこが変わったか

井川 向こうでは(登板する)1時間前に先発しろと言われたりする。そういう状況でも安定した投球ができるのは大きい。

−実戦感覚は

井川 ことしに入って打者に投げていない。打撃投手はいけるくらいの感じでいるが、もう少し時間はかかると思う。

−個人的な目標は

井川 設定していない。1日も早く1軍に上がって、貢献できるようにしたい。
(日刊スポーツ、2012.3.28)


 「通産2勝4敗 防御率6.66」という成績をメジャーで残した井川がNPBに帰って来ることになりました。あえて恥を晒せば私は2006年11月にヤンキース移籍が決定した井川の記事を書きました。いま読み返すと松坂と同程度の活躍で1年目に12勝くらいすると予想しています。見る目なさすぎて恥ずかしいわ。

 その記事で当時話題になっていた井川の「背信投球」がメジャー移籍に向けての意図的な手抜きであると指摘しましたが、結果的に球威がなくなっていたのは事実でした。アメリカでの成績が全てを物語っています。

 「ヤンキース史上失敗だった補強ランキング」で1位を争うほど活躍しないまま都落ちした井川。NPBで通用するのか疑問ですが、そもそも2Aですら勝てないピッチャーに「年俸1億円プラス出来高払いの2年契約」という厚遇はいかがなものか。こうして帰国後の年俸を保障するから猫も杓子もアメリカに行くんですよ。もっと足元見ればいいのに。

 年俸に納得はいかないものの、井川が復帰することはプロ野球ファンとして喜ばしいところ。ついでにゴジラ松井も帰って来ればいいのに。


<参照>
テレビ大菩薩峠 「移籍金30億」背信井川はヤンキースで活躍できるか
ウィキペディア 井川慶
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2012年03月26日

猫ひろしロンドン五輪出場決定

 カンボジア国籍を取得してロンドン五輪出場を目指すタレントの猫ひろし(本名滝崎邦明)(34)が男子マラソンの同国代表に決まった。カンボジア・オリンピック委員会のワット・チョムラーン専務理事が25日、明らかにした。他の競技の代表とともに4月に正式発表する見通しという。

 五輪の陸上では、参加標準記録を突破した選手が1人もいない国・地域は、男女1人ずつがいずれかの種目に出場できる「特例」がある。カンボジアはこれに該当し、猫は自己ベストが2時間30分26秒で標準記録に届かないものの代表に選ばれた。夢が実現することになるが、国籍を変更しての出場は論議を呼びそうだ。

 同専務理事によると、カンボジア・オリンピック委員会は陸上の最終候補を男子3選手と女子1選手に絞り、国際陸連による記録面の評価などを経て、代表を決めた。

 猫は2010年12月にカンボジア国内でのハーフマラソンで3位になったことが評価され、同国政府などから国籍を変更しての五輪挑戦を打診された。昨年10月にカンボジア国籍を取り、11月にインドネシアで開かれた東南アジア大会のマラソンに同国代表で出場。ことし2月の別府大分毎日マラソンで自己ベストを大幅に更新して50位となった。

 ▽ワット・チョムラーン・カンボジア・オリンピック委員会専務理事の話 猫さんの五輪出場を祝福する。たゆまぬ努力、厳しい練習を積んだ彼にはその資格がある。わずか2、3年で記録の大幅向上を図るのは難しいが、彼はそれをやった。五輪でまずは自己記録更新を期待したい。(共同通信、2012.3.25)


 猫ひろしさんのカンボジア代表決定について、往年の名ランナーで日本陸連理事の瀬古利彦氏は「本当におめでたいこと。五輪は参加することに意義がある。選ばれた以上、カンボジア国民の夢を背負って頑張ってほしい」とエールを送った。

 猫さんの自己記録は2時間30分台で女子のトップ選手にも及ばない。それでも日本陸連強化委員会の木内敏夫統括ディレクターは「最近の成長を見ると、ただの市民ランナーの走りではない」と評価した。

 国籍を変更しての五輪出場に批判的な意見もある。マラソンを通じてカンボジアとの国際交流に尽力する五輪メダリストの有森裕子さんは「心情的にはこれが本当にいいことなのか複雑だ」とコメントした。

 カンボジア国内ではあまり話題になっておらず、今のところ強い批判は起きていない。同国陸連のペン・ブティ専務理事は「猫さんは経済大国から来てくれた。猫さんのような日本人がカンボジアのために身をささげ、努力してくれることは、カンボジアにとって誇りだ」と歓迎した。(日刊スポーツ、2012.3.25)


 カンボジア政府がどういう意図で猫に五輪挑戦を打診したのか分からないので何ともいえないこのニュース。日柬友好の証なんでしょうか。

 将来指導者になったときのためにも地元トップ選手が貴重な枠を使うべきだと個人的には思います。五輪に出ればどういう練習でどんな結果が出るのか、経験をフィードバックできますから。猫が出てもタレント活動のネタになるだけではないか。

 民放各局はお祝いムードで報道するでしょうが、これは議論の余地がある難しい問題だと思います。
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2012年03月25日

前田敦子AKB脱退

 人気グループ「AKB48」の前田敦子さんが25日、さいたまスーパーアリーナで開催したコンサートで、グループを卒業することを発表した。

 ステージ上、「14歳の時、AKB48のオーディションを受けました。私の人生の中で大きな決断でした。2度目の決断をさせてください」と切り出し、「私、前田敦子はAKB48を卒業します」「20歳の夢に向かって歩きだします」と卒業を涙ながらに発表した。

 「今すぐいなくなってしまう訳ではありません。詳しいことが決まったら、お伝えします」とも話した。(産経新聞、2012.3.25)


 AKB48の前田敦子(20)が25日、さいたまスーパーアリーナで開催したコンサートで、グループを卒業することを発表した。卒業時期は未定。

 AKBの絶対エースの卒業という大きすぎるサプライズが用意されていた。ステージ上、自らマイクを握った前田は「20歳の夢に向かって歩きだします」とAKBからの卒業を発表。身を震わせ、号泣しながら自身の言葉でファンに説明した。前田の隣に立っていたAKB誕生時からの仲間で同じ20歳の高橋みなみも顔をぐしゃぐしゃにして、泣いていた。

 AKBは23日の同所での公演で、05年の結成当時からの悲願であった東京ドーム公演(開催時期未定)を発表したばかりだった。

 前田はチームA所属。1期生オーディションに合格し、05年12月8日に秋葉原の専用劇場でデビュー。この初公演の観客はわずか7人だった。昨年6月にはソロデビューも果たした。

 人一倍シャイで負けず嫌い。昨年6月の第3回選抜総選挙で1位に返り咲き、雪辱を果たした時は、発表直前から過呼吸に近い状態で身震いし、涙で息もできないほどだった。1位のあいさつでは「私のことは嫌いでも、AKB48のことは嫌いにならないでください」と訴えた。(デイリースポーツ、2012.3.25)


 AKBが歌番組などに出演した際、前田一人だけ笑っていないことが多かったので情緒不安定なのかなと思ったらついに脱退したというニュース。辞めることを決めていたのでシリアスにならざるを得なかったのでしょう。

 これだけ有名になったんだからソロでやりたいのは当然の話であり、タイミング的には想定内。総選挙でトップになれば他のメンバーのファンから叩かれるわけで、ネットでの誹謗中傷にも疲れたのでしょう。おつかれさまでした。
posted by リュウノスケ at 22:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 芸能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする