2007年07月19日

宮本顕治逝去

 日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため東京都内の病院で、死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。

 1958年に書記長に就任し党の実権を掌握。(1)国会で多数派を形成し政権を目指す平和革命(2)外国の共産党の影響を受けない自主独立路線−−に代表される「宮本路線」(綱領路線)を推し進め、現在の共産党の基礎を築いた。1997年を境に党の活動の一線から退いた。現在、党の指揮を取る「不破哲三議長−志位和夫委員長」の体制は綱領見直しなど柔軟路線を進める一方で宮本氏が敷いた基本路線の維持も表明している。戦前、戦後を通して日本の左翼運動の一翼を担ったカリスマだった。

 宮本氏は08年、山口県光井村(現在の光市)の肥料米穀商の長男として生まれ、旧制松山高校から東大経済学部に進んだ。東大在学中の29年に芥川龍之介を批判した「敗北の文学」で雑誌「改造」の懸賞文芸評論1等になり、以降プロレタリア文学運動の理論的担い手になった。

 共産党入党は31年。翌年、党員文学者の故宮本(旧姓中条)百合子さんと結婚、間もなく地下に潜った。33年に中央委員となったが、同年暮れに「スパイ査問事件」などで逮捕され、終戦直後の45年10月まで、網走刑務所などで12年近い獄中生活を送った。この間、非転向を貫いた。

 戦後45年12月の第4回党大会で、再び中央委員に。徳田球一書記長(当時)らと対立し一時反主流派に身を置いたが、党再建を図る58年の第7回党大会で書記長に選出され、70年に幹部会委員長、82年に議長に就任。この間不破氏らを要職につけ、最高実力者の地位を確立した。77年から、参院議員を2期。94年6月に一過性脳虚血発作で入院してから体力の衰えが目立ち、97年9月の第21回党大会で名誉議長となり、一線を退いた。同大会直後の10月の常任幹部会に出席した後、公の場に姿を見せておらず、2000年11月の第22回党大会ではほかの名誉職と横並びの「名誉役員」となった。

 対外的には旧ソ連、中国の両共産党と距離を置く「自主独立」路線を確立。特に中国共産党とは66年、ベトナム侵略に反対する国際的な統一行動にソ連を入れるべきでないと主張する毛沢東主席(当時)に対し、訪中した宮本氏が強く反発して会談が決裂。その後、関係断絶に至ったが、不破氏が98年7月に訪中、江沢民総書記と首脳会談を行い、32年ぶりに関係を正常化した。

 国内的には、議会重視の平和革命路線をとり、民主主義に対立する「プロレタリアート独裁」の用語を党綱領から削除、「マルクス・レーニン主義」も「科学的社会主義」に置き換えた。ソ連・東欧の共産主義政権崩壊の際は「ソ連型社会主義の敗北で、日本共産党は違う」と強調、党員の動揺を抑えた。(毎日新聞)


 浜田幸一の「宮沢賢治は人殺しだ!」で有名な日本共産党元議長宮本顕治氏がお亡くなりになりました。

 20世紀を生き抜いた古参の共産党員で90年代まで活躍していた人なんですが、ハマコーのような「体制側」の人からしたらスパイ査問事件などを起こしておいてぬけぬけと白寿まで生き、老衰で死ぬとはけしからんという意見もあるでしょう。

 しかし、宮本が武装闘争路線を変更しなかったら日本共産党がとっくに消滅していたのは間違いなく、その政治的手腕は認めざるを得ません。そういう意味では鶴見俊輔の指摘するように革命のためと称して死ぬのは子どもであり、宮本や故黒田寛一のように生活者として生き延びるのが大人なのかもしれません。

 幽霊のようにいつまでも死なず、戦前から戦後に渡り資本家を恐怖させたマルクス主義者宮本顕治。スパイではなかった小畑達夫氏にはあの世で謝罪すべきでしょう。ご冥福をお祈りします。


<参照>
ウィキペディア 宮本顕治
posted by リュウノスケ at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 訃報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする